解き放つ(Let go)ということ

 うつ病と不安障害で生活できなくなった娘を手伝うためにオレゴン州からカリフォルニア州のベイエリアに移り、二人でアパート暮らしを始めて3年経ちました。それでなくても広場恐怖症と社会不安障害があって犬の散歩が精一杯なのに去年はコロナ禍のロックダウンでほぼ引きこもり状態に。今年はワクチンのおかげで次第に周囲が動き始めており、娘もセラピーセッションに行ったり、たまにお店に行ったりと、少しずつ外に出るように努力しています。ただ、まだまだ回復にはほど遠く、心理的なものによるてんかん発作に似た症状が出るようになって運転免許証も一時停止になってしまいました。日本の8050問題も他人事ではないように思え始め、閉塞感に苛まれる中、セラピストの先生にダメ元でいいから私と娘が離れて暮らすようアドバイスされました。娘もなんとか一人で暮らせるようになりたいともがいています。そこで清水の舞台から飛び降りる覚悟で私は今度、生活の基盤をオレゴン州に戻すことにしました。もちろん当初は時々短期的に戻ってきて買い出しなど手伝いにくる予定ですが、基本的にはオレゴン州とカリフォルニア州で離れて暮らすため、私の方が心配で精神的にまいってしまいそうです。でも、そんなときに、以前のブログで書いたNAMI(全米精神疾患患者家族会)のセミナー資料を読み返していたら、「Letting Go」という詩をみつけました。誰が書いた詩なのかわからないのですが、今の状況にぴったりで私の背中を押してくれる言葉に心を打たれましたのでここに(私個人の状況に合わせて勝手に解釈した拙訳とともに)載せておきます。「Let go」とはなかなか訳しにくい言葉ですが、抱え込んでなかなか手放せなかったものを解き放つイメージがあります。私の場合は、娘を解き放つこと、そして私自身をこの状況から解き放つことです。

Letting go…

  解き放つということは…

Is not to cut myself off, but to realize I can’t control another person

  見捨てるということでなく、娘の人生を私が何とかすることはできないのだと悟ること

Is not to stop caring, but to realize I can’t do it for someone else

  心配するのを止めるということでなく娘の人生を私が代わって生きてやることはできないのだと悟ること

Is to allow someone to learn from natural consequences

  本人に自然の結果から学んでもらうこと

Is to recognize when the outcome is not in my hands

  私が結果を左右することはできないのだと悟ること

Is not to care for, but to care about

  世話をするのでなく、見守ってあげること

Is not to fix, but to support

  治してあげるのでなく、支えてあげること

Is not to judge, but to allow another to be a human being

  断ずることなくひとりの人間として認めてあげること

Is not to criticize or regulate anybody, but to try to become what I dream I can be

  娘を批判したり縛り付けたりせず、私自身が目指す人になろうとすること

Is not to expect miracles, but to take each day as it comes, and cherish myself in it

  奇跡を待つのでなく、一日一日を精一杯生き、自分を大切にすること

Is not to regret the past, but to grow and live for the future, to let go is to fear less and love more

  過去を悔やまず、日々成長して未来のために生きること。恐れを捨てて、もっと愛すること。

 

 考えてみれば、私はこれまで、娘が転ばぬうちに、怪我をしないように、とついつい先回りして手を差し伸べてきました。そのたびに娘は自分に対する自信を失っていったのかもしれません。「fear less」は「恐れを捨てる」というより、「それほど恐れないようにする」というのが正しいのでしょう。離れて暮らしていたら、娘は自殺してしまわないだろうか、ちゃんと食べているだろうか、パニックや解離に陥っていないだろうか、と心配は尽きることはありません。でも、その恐れを克服して、娘を信じてやることが、もっと愛することなのだ、と解釈しています。これはそばにいて世話をするよりも親として難しい修行かもしれません。まずは自分自身が親として成長することが(この歳になって、という感もありますが)娘の回復につながるのだと、この詩に教えられた気がします。

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「ワクチン打った?」

 先日ワクチン2回目を接種しました。米国は行政区画として州の下に郡(County)があり、私の住んでいるのはコントラコスタ郡というサンフランシスコ湾の北東部なのですが、カリフォルニア州では、ワクチン接種はすべて郡単位で管理されています。最初は医療従事者のみ、次に高齢者や高リスク者、と限定されていたので、健康な私はよほど後回しかと思いきや、3月下旬にはもう16歳以上は誰でも受けられることになりました。それで携帯電話で郡のホームページにアクセスし、いくつかの質問に答え、登録するとあっと言う間に予約が完了しました。こうした制度や普及速度も郡で違いがあるようです。

 私は2回とも郡の公的な医療機関でワクチンを打ってもらったのですが、待ち時間もなく、非常に効率的でした。注射後はアレルギー反応がないか確認するため大部屋の椅子に座って15分ほど待ち、それで完了です。ワクチンの種類は選べず、私はファイザーのものでした。1回目は注射された腕が痛むくらいでしたが2回目は夜から悪寒がして風邪の引き始めのような症状が1-2日続きましたが、その後収まりました。

 こちらでは、今では「ワクチン打った?」というのが挨拶がわりになっている感じで、日経の記事によれば、4月24日時点で少なくとも1回の接種を終えた人は18歳以上で米人口の52%に達したそうです。私の親戚や知り合いもほぼ全員がワクチン接種を終えています。先日オークランドの病院の待合室にいたら、ワクチンが余ってしまったようで、病院のスタッフが手当たり次第「ワクチン接種しませんか?」と勧誘していました。余ったワクチンは廃棄しないといけないからです。(ワクチンがまだ高リスク者に限定されていた頃は、ワクチン接種会場でボランティアをしていれば、余ったときにワクチンを打ってもらえるというような話も聞きました。)ただ、ワクチン接種率は州によって違いがあるようで、西海岸では概ね積極的ですが、南部や中西部では消極的なようです。ワクチン懐疑派の理由は、安全性の懸念というよりも、個人の選択の自由や政府の介入といった政治的な議論に移っているようで、民主党支持者は積極的、共和党支持者は消極的なのだそうです。しかもそういった議論がフェースブックなどのソーシャルメディアで広がるために、ますます二極化しているのではないかと思えます。ワクチンやマスク着用が政治化されてしまうというのは、残念なことです。

 それにしても、このワクチン開発のスピードには目を見張るものがあります。新型コロナの感染が騒がれ始めてからほぼ1年で量産にこぎつけたのですから。十分な治験が行われていないことに批判もありますが、リスクと利点を比較したら利点の方がはるかに大きく、人類の危機を救ったと言ってもよいのではないかと思います。「ワクチン打った?」が合言葉になって次第に消極派も説得され、1日も早く国民の7割がワクチンを受けて集団免疫が達成されることを願っています。

追記:

 クリスピー・クリームは、ワクチンを2回接種した証明書を提示すると無料でドーナツ1個進呈という「COVID-19  VACCINE OFFER(コロナワクチンキャンペーン)」を全米で展開しています。なんと5月下旬まで、ほしければ毎日でも一人1日1個もらえるらしいです。私も誘惑に負けて行ってきました。毎日ドーナツを食べていたらコロナよりももっと健康に悪いような気もしますが、さすがアメリカ、大盤振る舞い!とちょっと感心しました。ワクチン拒否派には月曜に限りドーナツ1個とコーヒー進呈、という政治的な配慮も。

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宅配騒動

 今日はメンタルヘルスとは何の関係もないのですが、アメリカに来て35年目にして「これは日本ではありえないだろう」とカルチャーショックを受けたことについて書こうと思います。コロナ禍に伴うロックダウンで私の住む地域もレストランはテイクアウト以外営業できないようになっているのですが、その反面、Uber Eatsなどのフードデリバリーがよく利用されているようです。私も先日、夜は暗いし、運転するのが苦手なのでDoorDashというフードデリバリーサービスを頼んでみることにしました。注文から支払からすべてネットで行い、携帯電話に「間もなく到着します」というメッセージが着信した所まではよいのですが、そのうち配達の人から「ビル番号はなんですか」とメール。送られてきた写真を見ると私のいるアパートとは違う写真。「そこじゃないです。駐車場の入り口まで行きますから待っててください」と返信し、急いで外に出て、待てど暮らせど車は現れず。「どこにいるんですか」と返信したら、集合郵便受けの上に食べ物の包みを置いた写真が送られてきて「ここに置いときましたから」。「これはどこ?わからないので、お願いだから戻ってきてください」と返信しても「もう次のオーダーが入っているので」と行ってしまった様子。どうやら隣のマンションらしいので、道を行き交う人に携帯に送られてきた写真を見せて「この郵便受けがどこかわかりませんか」と手当り次第聞きまくり、ようやく見つけた私の夕飯。雨ざらしのまま集合郵便受けの上にのっかっていました。。。もうこれからはやはり、テイクアウトをする場合は自分で運転して取りに行った方がよさそうです。その時は腹が立ったのですが、後から考えるとなんとも呆れる、笑ってしまう体験でした。

 

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頼んだのはインド料理とマンゴラッシーという飲み物。この写真が送られてきて「配達完了しました」と言われても…

 

「怒れる少女」グレタ・トゥーンベリ

 最近、スウェーデンの環境保護活動家で「怒れる少女」グレタ・トゥーンベリのドキュメンタリー『I Am Greta』を見ました。グレタが2019年に行った国連の演説は有名で、彼女が環境保護運動で果たしている役割は誰もが認めるところだと思いますが、グレタはアスペルガー症候群、強迫性障害(OCD)、選択性緘黙(かんもく)症(特定の状況で話すことができなくなる疾患)であることを公表しています。

 そして、(2019年のことですが)そのグレタをマイケル・ノウルズという政治評論家があるテレビ番組で「精神を病んでいる(mentally ill)スゥエーデンの子供」と評したのです。その後、ノウルズの発言に対する批判が巻き起こり、テレビ局(フォックス)は謝罪することになりました。番組内ではその発言に対して別の出演者が「You're a grown man and you're attacking a child. Shame on you.(大人のくせに子供を攻撃するとは、恥を知れ)」と反撃、それに対してノウルズは「I'm not. I'm attacking the Left for exploiting a mentally ill child(彼女を攻撃しているわけではない。精神病の子供を利用している左翼を攻撃しているのだ)」として、さらに「She is mentally ill. She has autism. She has obsessive–compulsive disorder. She has selective mutism. She had depression. (彼女は精神病だ。自閉症で、強迫性障害(OCD)、選択性緘黙症があり、以前は鬱病でもあった)」と言いました。「mentally ill」という言葉自体は差別用語ではないと思いますが、私はグレタを否定する発言の中でノウルズが精神病を持ち出したことが許せませんでした。ちなみに英国自閉症学会はノウルズの発言を非難するツイートの中で、自閉症(またはアスペルガー)はメンタルヘルスの病気ではないと言っていますし、グレタの場合はアスペルガーであることがかえって彼女の活動の原動力となっているようですが、たとえもし精神病であったとしても、だからといって環境保護を訴える意志や能力を否定するのは無知からくる差別的発言としか思えません。

 グレタは、ドキュメンタリーの中で、「アスペルガーを患っているということですが…」と切り出したインタビュアーに対して「患っているのではない(not suffering)、持っているのです(I have it)」と訂正しました。グレタは、アスペルガーは一つの才能、「スーパーパワー」だとも言っているそうですが、なるほど、アスペルガーだからこそ、1つの事柄をとことん突き止めて、ここまでのめり込めることができるのでしょう。また、環境保護を謳いつつ経済優先で物事を勧める大人が許せないという一途なところも、行動を起こす原動力になっているのだと思います。一方で、涙を浮かべて大人たちを糾弾し「あなたたちを許さない」と怒りをあらわにしているグレタに拍手している大人たち、「娘があなたの大ファンです。セルフィー撮ってくれますか」とすり寄ってくる大人たちに私は違和感を覚えました。彼女は本心から地球のことを心配してそれを自分の生死にかかわる問題だと受け止めているのではないかと思うのですが、ニコニコ顔の大人たちはそれをわかっていないのではないか、自分たちの過ちとは思っていないのではないか、と。また、若者たちの間で鬱病が増えているのも、地球の温暖化、環境破壊、貧富の差の拡大など将来に希望が持てなくなっていることが一つの原因ではないかと考えます。グレタを子どもたちの恐怖を煽る扇動者のように避難する人達もいますが、若者が未来に悲観的なのははグレタのせいではなくて、気候変動という事実でしょう。私達の大半は、環境破壊を憂いつつも、車を運転し、多くのゴミを出し、食べ物を無駄にして、ある程度妥協しながら生きています。妥協できずに生きていくのはつらいことでしょう。けれどもグレタは自分のアスペルガーを「Gift」だと言っている、そうしたメッセージを発信していることもまた、彼女の功績だと思います。

 

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自殺予防と心の痛み

  Jack Klott著「Suicide & Psychological Pain(自殺と心の痛み)」という本を読みました。鬱病の家族を介護する者にとって、一番怖いのはやはり自殺でしょう。ずっと生きづらさを抱えて生きてきた娘から「生きるのがつらい、私は生まれたくなどなかった」と言われても私はだだうなだれてそれを聞くしか術はなく、以前は「なんとかなるよ、生きるのは思ったほど大変じゃないよ」などと言っていたのですが、それはなんと脳天気な返事だっただろう、と今では思えます。「生まれたくなかった」という訴えは、娘がずっと抱えてきた「心の痛み」であって、「なんとかなるさ」程度ですまされるようなものではないのです。この本はセラピスト向けに、いかに患者の自殺を予防するかを中心に書かれているのですが、単なる介護者である私にも色々と学ぶところがありました。

 日本の自殺率は2016年時点で人口10万人当たり18.5人と世界でも上位10位に入るほど高いようですが(国の自殺率順リスト)、アメリカも低くはありません。この本によれば、アメリカ自殺学会は1992年に、自殺率を当時の人口10万人当たり10.9人から2000年までに一桁にするという目標を掲げていたそうですが、実際には増え続け、2016年時点では15.3人と、単純計算すれば1992年から24年間で40%ほど増えてしまったことになります。(特に2020年はコロナ禍もあり、自殺者の数はさらに増えているようです。)本書の著者は、こうした自殺率の増加を踏まえ、自殺予防の方法を考え直す必要があると提唱しています。「自殺は鬱病が原因だから鬱病を治すことがまず第一で、そのために様々な抗鬱剤を試すべきである」という考えではなく、心の痛みに向き合うことがまず第一だというのです。確かに、様々な抗鬱剤が開発されているにもかかわらず自殺率が増え続けていることは、抗鬱剤が自殺予防に有効ではないことを示しているとしか思えません。

 この「心の痛み」という言葉、英語では「psychache」というのだと知りました。アメリカ自殺学会を設立したシュナイドマン博士が、「心理」を示す「psych」に、「痛み」という意味の「ache」を組み合わせ、「罪悪感、苦悩、恐怖、パニック、不安、無力感などに伴う強い心理的な痛み」と定義した用語です。それが自殺のリスク要因であり、自殺予防の目標はそれを取り除くことであるべきなのですが、実際は「取り除く」ことは不可能かもしれません。それで、著書のKlott氏は、心の痛みに「対処する(cope)」方法を考えることが重要であると述べています。心の痛みがどこから生じているのかを深く掘り下げ、例えば環境的な要因であれば変更できるか、対人的なものであれば改善できるか、感情的なものであれば、それをもっとコントロールできるかを考えるということです。自殺は、心の痛みに対処しきれなくなり、自殺以外の選択肢が見えなくなってしまった結果であり、セラピストへの指南書的な本書では、患者の目を塞いでいる「ブラインド」を取り除いて自殺以外の選択肢を示すことが大切だと説いています。

 私の娘は子供の頃から「自殺念慮(死にたい気持ち)」を抱えて生きてきたと言いますが、本書は「自殺念慮自体を病気であるとすべきではない」と強調しています。(自殺の恐れがあるとなると強制入院させられるため、病気でない点を強調しているのかもしれません。強制入院は新たなトラウマとなる可能性があるからです。)娘はセラピストに、たとえ自殺念慮が生じても、それを「old friend」と考えればよい、と言われたそうです。つらくてたまらず、出口が見えない時、「死んでしまいたい」と思うことは不思議ではありません。無力な子供だった自分にとって唯一の逃げ道を提供していた自殺念慮はある意味安心感さえ与えてくれたと娘は言います。またそれが舞い戻ってきたら「どうしよう」とパニックすることなく、静かに「どうして戻ってきたの」と尋ねてあげる存在だと考えればよい、だから「old friend」なのだ、と。そう考えたら、私自身、少し気が楽になったようにも思います。

 本書では、自殺念慮をもっている人をSuicide Ideator、未遂した人をSuicide Attempter、完遂した人をSuicide Completerと分類していますが、念慮者にとって自殺は問題解決のための1つの方法であり、逆に言えば問題を解決したいという意志があるということなので、念慮者は通常カウンセリングに前向きで、未遂者よりも自殺衝動につながることを予防できる確率が高いのだそうです。「生きるのがつらい」という言葉に対する「なんとかなるさ」という私の反応は、何とか元気づけようとする気持ちではあっても娘の気持ちに寄り添った言葉ではなかった、と今では思えます。「もっと前向きに考えよう」とか「なんとかなる」とか言うよりも、「つらいね」と心の痛みにまず共感してあげることが、最初の第一歩なのです。私の娘も、もう数年来カウンセリングを続けていますが、本書の著者がセラピーの長期目標とする「Life Worth Living(生きる価値のある人生)」と思える日がいつか来ますように、それが今の私の切なる願いです。

 

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自閉症燃え尽き症候群

 前回のブログでも書きましたが、自閉スペクトラム症(ASD)というのは、「スペクトラム」(Spectrumは光や波長による分布を示す「スペクトル」とも訳されますが、「あいまいな境界をもった連続体」という意味)という名称が示すように、症状の種類も重症度も幅広く、特に女性の場合は大人になるまで診断が遅れる場合が多いそうです。私の娘の場合は、子供の頃からずっと生きづらさは感じていたものの、大学も卒業し、ドイツ留学などもして28歳までは仕事もできていたのですが、今になって感覚過敏、反復的な運動、極めて強いこだわりがあることなど、ASDと通じる特徴が多くあることに気付き、診断を受けようと奔走しているところです(ASDの診断は他の診断と違い、特別な専門家による判定が必要なようです)。サポートグループで知り合った一人の女性は40歳を過ぎてからASDの診断を下され、それで今までの生きづらさが納得できて何だか気が楽になったそうです。

 ASDに気付かず、苦労しながらも何とか社会的に機能してきた人が疲れ果てて機能できなくなってしまう、娘の場合はまさにそれではないかと思えます。数年ほど前から注目され始めた「Autistic Burnout(私は勝手に「自閉症燃え尽き症候群」と訳しています)」というこの症状、人によって様々ということですが、極度な疲労感と強い不安を覚え、鬱状態になり、感覚の過敏性が高まって変化に適応できなくなるというのがぴったりあてはまるのです(「変化」というのは、単にその日の予定が一部変更になるような小さな変化も含みます)。そして、スキルを失う場合もあるそうですが、例えば私の娘は仕事はもちろん、調理をする、車の運転をする、洗濯をする、そしてときには歯磨きやシャワーなど、生活に必要な基本的なスキルも失ってしまいました。(これはまたこれで「実行機能障害」というそうですが、これについてはまた後日書きたいと思います。)あるいは、強いストレスを受けた場合は言語能力を失う場合もあります。

 ではなぜ、このような燃え尽き症状が発生するのかといえば、長年にわたってNeurotypicalな(発達障害でない人々を意味する定形発達の、いわゆる「ふつう」の)人々に溶け込もうとASDをカモフラージュしてきた結果だそうです。娘は自分はカメレオンだと言いますが、おそらくそのおかげで日本に行けば日本人と同じように振る舞って外国人の訛りなく日本語を話し、ドイツ留学した時はドイツ人に間違われるくらいドイツ語に堪能になりました。そしてアメリカに戻ってからは職場で他の社員と同じように振る舞う努力をしてきた結果、燃え尽きてしまったようです。ただ単に軽いおしゃべりをするだけでも、スティミングという反復的な動作をしないように自分を抑え、相手の目を見て受け答えをするということに多大な労力を使うらしいです。そのように、長年カモフラージュを続けてきた結果、疲れ果てて、もうカモフラージュできなくなり鬱になったり、もっとひどいときには自殺に走ったりすることがあるそうです。娘も、もっと早く気づいていればストレスの要因を取り除くことも可能だったかもしれません。ただ、「言うは易し」で、ふつうに会社勤めをしていたらASDの人がストレスの要因を取り除くことは簡単ではありません。例えば、出張があったらその後1日は休息させてもらうとか、在宅勤務を増やすとか、社交的な集まりは免除してもらうとか、よほど理解のある会社でないとなかなか難しいでしょう。ただ、コロナ禍のせいで在宅勤務は好むと好まざるに関係なく増えており、今後は勤務形態が恒久的に変わる可能性もあります。そうして少しはNeurotypicalでない人たちにとっても働きやすい環境になっていけばよいな、と思っています。

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うちのワンちゃんは羊のおもちゃに強いこだわりが…。

 

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スティミング(自己刺激行動)

私の娘は3年前に仕事に行けなくなり、一時はバイトをしたりしましたが、一人でふつうの生活ができなくなり、今はほぼ引きこもりの状態です。一応、診断は鬱と不安障害、PTSDとOCDというものですが、パニック障害、解離、感覚過敏、社交不安、広場不安、分離不安、PMDD、不眠、悪夢、実行機能障害、心気症とそれはもう色々な不安や障害がないまぜになっていて、何が診断で何が症状、障害なのかわからないくらいです。様々な療法や薬も試しましたが回復には程遠く、これからどうなるんだろうという不安と閉塞感の中、少し見えてきたものがあります。それは、これらの問題は発達障害によるものではないのか、ということです。よく「自己診断はするな」と言われるのですが、心の問題の場合、頭の中で何が起きているのかを一番知っているのは本人しかなく、科学的な検査で白黒判定できるものではないので、医師による診断も結局はかなり主観的な部分があるのではないかと思います。それに、診断そのものの目的は何かといえば有効な治療法を見つけることで、診断自体が目的ではないでしょう。発達障害ではないかと考えたのは、娘自身が精神科医に勧められて自閉症スペクトラム障害の質問票に回答してみた結果、極めて高い確率でスペクトラム障害(ASD)の可能性があるという結果になったからです。今は診断してくれる専門家を探しているところですが、これもまた、保険の問題とコロナのおかげで、待てど暮らせど返事がない状態です。自閉症の非営利団体が紹介してくれたクリニックは所得に応じて400ドル〜4000ドルの費用がかかるとのことで、しかも6-8カ月待ちだそうです。

正式な診断はまだですが、発達障害と考えると、「なるほど」と納得できることがたくさんありました。女性の場合、発達障害があっても周りに適応しようとするため発見が遅れるのだそうです。ASDの男女比は一般に4対1と言われているそうですが、実は多くの女性のASDが見過ごされてきたのはないかという議論が近年なされるようになっています。ASDでありながら周囲に適応するために無理を重ねた結果、大人になって鬱や不安障害を発症するケースがあるそうで、それを「Autistic Burnout」というそうです。日本語の定訳はまだないようですが、「自閉症燃え尽き症候群」とでもいいますか…。私の娘はずっと優等生だったのですが、そのためにどれだけ苦しい思いをしてきたのかと思うと、気づいてやれなかったことが悔やまれ、なんともやりきれない気持ちです。

ただ、発達障害かもしれないと気づいたことで、なんだか本人も私もふっきれた気がすることは確かです。特に、娘の場合はストレスが生じると「解離」といって、ときどき意識が離脱して人形のような状態になったり、その反対にパニック発作を起こしてしまうのですが、「スティミング(自己刺激行動)」という動作をすることで、そうした事がある程度防げるようになりました。「スティミング」は「反復される意味のない行動」という定義だそうですが、大いに意味があって、例えば歩き回ったり、体をゆらゆら揺らしたり、手を動かしたりすることで、かなり気が落ち着くのです。娘に言わせれば、そうした行動は周囲から奇異に思われるため、ずっと衝動を抑えていて、そこでかなりのエネルギーを消耗していたのだそうです。ASDらしきあるアメリカの俳優が「自分はずっと棚の上に自分の頭がのっかっている気がしてきた」とインタビューで言っていましたが、娘も意識と感覚が結びつかず、その気持がよくわかると言っていました。スティミングすることで、体の感覚を取り戻せる気がするということです。そして、別に人に迷惑をかけるわけでもなし、それで気が落ち着くなら人の目を気にせずやりたいだけスティミングをすればよいのだと気がついたのです。医師との診察で「座ってください」と言われても「すみません、立ってていいですか?その方が落ち着くので」と言えるようになりました。そして自宅では好きなだけクラゲ踊りのようにからだをゆらゆら揺らしています。もう「ふつう」のふりをする必要なないんだと気づいたことが、かえって私たちに希望をもたらしている気がします。山程あるいろいろな症状の根源がASDならば、焦って治そうとしないでそれに付き合える方法を考えようという一つの道筋が見えた気がするのです。

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